ノマドの先駆者・松尾芭蕉|収入源や生き方まとめ

ファンタジー絵本 ノマド

ノマドワークは最近生まれたスタイルに思えますが、じつは昔から存在していました。

江戸時代の俳諧師・松尾芭蕉はノマドワーカーの先駆者です。インターネットのない時代にノマドしていました。どうやったのでしょう?彼のノマドライフあれこれをまとめました。

この記事では、親しみを込めて「芭蕉」と呼びます。

話の背景:元禄時代はどんなだった?

芭蕉は江戸時代初期〜元禄期に生きました。江戸時代初期は混乱していましたが、元禄期になると落ち着いてきます。

どんな風に落ち着いたかというと、

  • 武断政治→文治政治へ
  • 新田開発による農業生産力のアップ
  • 海運業の隆盛による流通の発達
  • 貨幣経済の発展
  • 京都・大阪などの上方を中心とした町人文化である元禄文化

です。

重要ポイントは、文化・芸術活動が隆盛したこと。元禄になり数多くの有名な文化がたくさん誕生しました。そのような時代に芭蕉は俳諧師として名を馳せました。

元禄文化に貢献した人・作品

  • 「曽根崎心中」の浮世絵作家『近松門左衛門』
  • 浮世草子「日本永代蔵」の『井原西鶴』
  • 浮世絵「見返り美人図」の『菱川師宣』
  • 「紅白梅図屏風」の画家『尾形光琳』

松尾芭蕉の功績

芭蕉は感性に優れていました。新しい俳諧のスタイルを作り、俳句の素晴らしさを全国に広げました。文化人として高い評価を受け、今日に至るまで句が受け継がれています。

芭蕉のスゴさ|感性が深かった

「古池やかはず飛び込む水の音」
この句には感情表現が見当たりませんが、字を読むだけで光景が浮かんできます。当時、カエルと言えば鳴き声を聞いて風流を感じるものでした。芭蕉の句により、池に飛び込む音という、生活の中の新しい季節感が生み出されました。

芭蕉のスゴさ|新たな俳諧スタイルの構築

辞書で「俳諧」の言葉を調べると、滑稽に由来があると書かれています。実際、元禄の俳壇では、滑稽の機知や華やかさを競う句が目立ちました。

芭蕉は静寂の中の自然の美や魂の救済を謳い、人々の心に新たな風情をもたらしました。芭蕉は俳句を滑稽としてではなく芸術として扱ったのです。以降、俳諧は滑稽→芸術へと高まりました。

芭蕉のスゴさ|俳句の素晴らしさを全国に広めた

人口の85%が百姓というデータから分かる通り、江戸時代は地域に根ざした生活を送る人が多かったです。芭蕉は希少な旅人として、旅先で句会を開きました。

旅先での句会は地域で生活する人と交流する機会、いわゆる情報交換の場でした。芭蕉はノマドスタイルを通じて情報のハブ的な役割を担いました。

必ずしも順風満帆ではなかった

芭蕉は苦労をしてノマドになりました。彼の人生を振り返れば、至る所に苦労の影が見えます。

芭蕉の苦労|伊賀上野の山家出身

芭蕉は伊賀上野の山家(やまが)に生まれました。山家には山奥という意味に加え、差別的なニュアンスがあります。芭蕉が生きた時代は伊賀上野の山家出身者は出世できないと決まっていました。芭蕉の人生は出世の道がない所から始まったのです。

芭蕉の苦労|レールのない道を歩む

芭蕉は士農工商の四民社会で生きることを諦めました。俳諧の師匠・北村季吟から許可を得て、俳諧師になりました。そして後に、江戸へ出ます。

余談ですが四民以外の生き方は当時の社会に全く存在しなかったわけではありません。医者、易者など「者」が付く人の多くが四民の外の存在でした。武士でも四民の最高位の地位を捨てて、四民から外れた生き方を選ぶ人もいました。

芭蕉の苦労|敢えて厳しい道を選ぶ

江戸に出た後、プロの俳人となるまで様々なバイトをして苦労しつつも俳諧師としての名はどんどん上がっていきます。そして、日本一の都会・江戸で超有名人になりました。深川に「芭蕉庵」という屋敷を寄贈され、風流人の暮らしを送ります。

しかし芭蕉は、順風満帆な生活に満足することはありませんでした。俳句創作者としての自分に刺激を与えるため、野ざらし紀行の旅に出ます。

野ざらし紀行の名前の由来は、「旅の途中に死んで野ざらしの屍になってもかまわない」という決意を表したものです。以後、ノマドワーカーとしての人生が始まります。

芭蕉の旅の目的

芭蕉は「人生は旅である」と捉えていました。奥の細道の冒頭に、「月日は百代(永遠)の過客(旅人)である」「過ぎ去る年、やってくる年もまた旅人である」と述べています。

奥の細道の冒頭では、白川の関を超えて、松島の月を見たいと述べています。様々な名所を目で見たい思いがあったようですが、実際は旅を通じて俳諧を深めたかったのでしょう。「古人も多く旅に死せるあり」の言葉から分かる通り、死を覚悟して旅に出ていたことがわかります。奥の細道ツアーに出発する前に、深川の芭蕉庵を人に譲っています。

ちなみに奥の細道ツアーは当時のお金で約180万円の出費だったとされています。

芭蕉の収入源

芭蕉の立場は宗匠と呼ばれる俳諧の指導者でした。有名な宗匠として、62人以上の弟子や、旅先の客人からの歓迎を受けました。

芭蕉の収入源

  • 1.前句付(まえくづけ)
  • 2.句会の出座
  • 3.作品集の出版販売
  • 収入補足1.添削
  • 収入補足2.弟子への指導

芭蕉の収入源1.前句付(まえくづけ)

前句付は五・七・五(七・七)の前句を出す仕事です。句の投稿者はお金を払い、最終的に優秀句を宗匠が選びます。優秀句には褒賞として金品が出たので喜ばれました。芭蕉の地方の弟子は豪商や豪農が多いので、多めの心づけを受け取っていたとされています。

前句付は賭け事に分類される俳諧で、正式なものではない雑俳と呼ばれ、研究者たちも注目しませんでした。しかし最近では、俳諧文化の拡散に貢献したとして注目されるようになりました。

芭蕉の収入源2.句会の出座

旅先で俳人と連句を詠めば、出座料が入ります。今でいう芸人の地方イベントのイメージです。

芭蕉の収入源3.作品集の出版販売

今でいう物販です。句集など自分の作品を販売していたとされています。

収入補足1.添削

宗匠には地方の門人の句を添削する仕事もありましたが芭蕉は添削が嫌いで添削仕事はほとんどしていません。把握している限りでは、野ざらし紀行の際に尾張鳴海で添削した史料が残っているだけです。

収入補足2.弟子への指導

宗匠は弟子への指導料を受け取っていましたが、芭蕉は弟子からお金を受とりませんでした。しかし弟子は芭蕉に食糧を渡し、生活を支え合っていたようです。

まとめ|芭蕉は俳諧と旅に情熱を捧げた人です

芭蕉の辞世の句は、「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」。
旅先でたとえ死の床にふしても、夢の中ではいまだに知らない枯野を駆け回っているという意味です。病床でも俳諧への想いは止まりませんでした。

結果的に芭蕉はこれ以上句を詠むことはなくなりましたが、この言葉には俳諧への愛を感じます。

芭蕉は俳諧の世界に大きな影響を与え、ノマドという視点からも現代のライフワークに影響を与えています。

芭蕉のノマドスタイル、いかがでしょうか?

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